かんたん相互リンク
オールドドメイン |
坂本龍馬最新ニュース
龍馬の銅像、函館に 有志が11月建立 北海道開拓の志を表現
(北海道新聞2010年9月29日記事より)
【函館】大河ドラマ「龍馬伝」で注目される坂本龍馬3件の銅像が11月、函館の観光ゾーン西部地区に建立される。道内初の龍馬の立像となり、準備を進める市民団体は「北海道開拓を目指した龍馬の志を伝えたい」と話している。
建立するのは、北海道坂本龍馬3件記念館(函館市末広町)などでつくる「函館に坂本龍馬像を建てる会」。同館の開館1周年に合わせ11月14日に除幕式を行う。建立地は同館向かいの敷地で、函館市電の電停「十字街」近く。1700万円の制作費は全額を全国からの寄付でまかなう予定。
1989年に建てられた長崎市内の龍馬像を手掛けた同市在住の彫刻家山崎和国さん(75)が制作する。
同会は建立の寄付金を募っている。問い合わせは龍馬記念館内の同会事務局(電)0138・24・1115へ。
坂本龍馬、拳銃を練習? 鹿児島の旧家に標的、鑑定中
(朝日新聞2010年9月27日記事より)
坂本龍馬が射撃訓練した痕跡なのか――。江戸時代に火縄銃などの訓練に使われた標的が、鹿児島市内の旧家で見つかった。旧家は薩摩に滞在中の龍馬の世話をしたと伝わっているといい、的を買い取った龍馬ファンの依頼で大阪市の古式銃研究家沢田平(たいら)さん(75)が、龍馬が使用したものかどうか鑑定を進めている。26日、京都市内の講演会で披露した。
標的は2点見つかった。江戸時代に使われた「角的(かくてき)」で、1辺約12センチの薄い杉の板に和紙を張り、丸い「星」が描かれている。的を張った板には「慶応丙寅(ひのえとら) 龍馬短筒(たんづつ)稽古(けいこ) 於薩州(さっしゅう)」と書かれた紙も張られていた。龍馬が1866(慶応2)年、薩摩で拳銃の練習をしたという意味だ。的には銃弾の穴があり、二つの的に計7発当たっているが、中心は1発だけ。命中精度が低かったらしい。
沢田さんは「京都・寺田屋で幕府側に襲撃されて薩摩で湯治をした龍馬が身を守る必要性を感じ、練習したのでは」と話している。鑑定を確定させるため、年内に鹿児島市で旧家の関係者から聞き取り調査をする。
(2010年4月27日 読売新聞より)
山梨県甲州市塩山上井尻の郷土史研究家、矢崎勝巳さんが写真から体格を測定する方法を考案し、幕末の志士・坂本龍馬(1835〜67年)の身長を169センチ、体重を62・1キロと算出した。
平均身長が150センチ台だった幕末当時、龍馬の身長は5尺7寸(173センチ)とも6尺(182センチ)とも伝えられ、長い間大男だったとされてきたが、一石を投じそうだ。
矢崎さんは、当時の着物の襟幅が6センチか6・5センチの2種類しかないことに着目した。6センチとすると背が低くなりすぎるため、6・5センチとして龍馬の立位の肖像写真で算出した。
2007年10月の日本人類学会で、龍馬の身長は170センチに満たなかったとの試算を紹介したのに続き、昨年10月の同学会では体格指数BMIで体重を試算する方法も発表した。
このほど、龍馬のBMI指数を標準体形の「18・5以上25未満」と仮定し、標準値の平均21・75を基に体重も試算した。矢崎さんはより精度を高めるため、京都国立博物館の考古室長・宮川禎一さんからのアドバイスを受け、看護師や医療関係者らにも龍馬の写真を示して体重を尋ねたところ、55キロ〜62キロと答えたという。
高知市の高知県立坂本龍馬記念館では、龍馬の身長を173センチと紹介している。歴史研究家・平尾道雄の著書「龍馬のすべて」の中で、土佐藩出身で宮内大臣を務めた田中光顕が龍馬を「5尺7寸」と説明した記述が根拠だ。
長崎市の亀山社中記念館は昨年7月、京都国立博物館に保存されている龍馬の着物を元に、宮川さんと協力して龍馬の着物のレプリカを作製した。着物の丈は147・7センチで、175センチの男性が着用しても大きかったという。
同市文化観光総務課は「龍馬は170センチ以上あったのでは」としているが、矢崎さんが呉服店に尋ねたところ、男性も女性のように着物を5センチほどたくし上げて着ることがあるという。
宮川さんは「龍馬の身長に統一した見解はない。
研究の余地がある面白いテーマだ」と話す。 矢崎さんはこの試算の誤差を身長でプラスマイナス4センチ程度、体重はプラスマイナス4キロ程度と指摘し、「体重や身長が分かれば、歴史上の人物を身近に感じるためのひとつのヒントになると思う。これをきっかけにもっといい案が出てくればいい」と話している。(山田佳代) |
|
坂本龍馬 年表
| 1835年(天保六年) |
| 高知に郷士坂本八平の次男として誕生。 |
| 1853年(嘉永六年) |
| 江戸で北辰一刀流の千葉道場に入門。 |
| 1858年(安政五年) |
| 北辰一刀流の免許皆伝。土佐に帰国。 |
| 1861年(文久一年) |
| 武市半平太の土佐勤王党に加わる。 |
| 1862年(文久二年) |
| 土佐を脱藩。勝海舟の弟子になる。 |
| 1863年(文久三年) |
| 神戸海軍操練所の塾頭になる。 |
| 1864年(元治一年) |
| 楢崎お龍、薩摩藩の西郷隆盛と知り合う。 |
| 1865年(慶応一年) |
| 鹿児島、長州に行き、桂小五郎に会う。亀山社中をつくる。 |
| 1866年(慶応二年) |
京で薩長同盟を仲立ちする。
伏見の寺田屋で幕府の役人に襲われる。 |
| 1867年(慶応三年) |
海援隊の隊長となる。大政奉還の「船中八策」を考える。岩倉具視に会う。 11月15日
京都近江屋で午後9時ごろ、刺客に暗殺される(享年33歳)。 |
|